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| 時は1600年。天下分け目の「関ヶ原の合戦」の前哨戦として石田成方一万五千の大軍が田辺城を攻めました。当時、城主・忠興をはじめ他所でいくつもの戦線を構えていた細川軍は田辺城を守るのに、忠興の父・幽斉いるわずか五百人の兵で戦わねばなりませんでした。こうした圧倒的不利な戦況のなか、果たして幽斉はどのように立ち向かったのでしょうか? |
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| 細川幽斉は実の父が室町幕府第十二代将軍・足利義晴とも言われており、将軍家や公家と親密な関係にありました。また、戦国の世にあってすぐれた文人であり、和歌・連歌をはじめ太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠・有職故実にいたるまで、多彩な才能を発揮していました。なかでも三条西公枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であり、その廃絶を後陽成天皇が憂慮されたことが、籠城の際の勅命講和につながったと思われます。 |
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| 田辺籠城図(大泉寺所蔵) |
◎問い合わせ/田辺城資料館0773-76-7211 |
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| ● 関ヶ原の前哨戦となった田辺城籠城。天皇御勅命で石田軍の包囲が解かれた理由とは。 |
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全国の大名が東軍・徳川家康方と、西軍・石田三成方に分かれて戦った関ヶ原の合戦。そのおよそ2か月前に起こったのが舞鶴・田辺城での籠城戦でした。徳川方についた細川忠興制圧をめざし、石田三成が一万五千の軍勢を集め田辺城に攻め込みます。この時、忠興は東軍の会津攻めに参加していて不在。他にも戦線を構えていた細川軍は、忠興の父・幽斉率いるわずか五百人の軍勢でこれを迎え撃たねばなりませんでした。圧倒的不利。その状況で幽斉がとった戦術は「籠城」でした。
およそ1か月半にわたる籠城戦は勝利はおろか援軍の見込みもなく、落城寸前にまで追い込まれます。しかし、田辺城制圧に参加していた石田軍の諸将の中には、幽斉を歌道の師として崇拝する者が少なくなく、城を攻め落とすことにためらいがありました。そこへ後陽成天皇の勅命が届けられます。後陽成天皇は歌道の達人である幽斉の討死を憂慮したのでした。天皇の勅命とあって西軍はただちに包囲を解き、およそ1か月半にわたる籠城が幕を下ろしたのでした。 |
| 細川幽斉像(天授魔所蔵) |
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